田んぼは売るな、畑は売るな
表題は、わが国の農村で、昔から言い伝えられてきた、戒めの言葉である。どんなに困窮しても、土地だけは売るな、という訓戒である。
ここには、旧くから低所得に呻吟していた農業者の苦難が凝縮されている。つまり、土地さえ持っていれば、何とか食っていける、だから、土地は絶対に売るな、という訓戒である。
今でも、この訓戒は形を変えて続いている。そして、今後も資本主義が続くかぎり、貴重な訓戒であり続けるだろう。
日本のような資本主義国では、土地の私的所有権が認められている。だから、自由に売ることができる。だが売るな、というのがこの訓戒である。
この訓戒は、いまでも生きている。そして、資本主義が続くかぎり、大事な訓戒として、連綿と続くだろう。資本主義は、しばしば過酷な搾取によって、農業者に土地を売らせるほどの窮地に追い込むからである。
中國のように、社会主義國では、土地の私的所有は認められていない。だから、土地は売れない。搾取もない。だから、この訓戒は無意味である。そうなるまでの辛抱ともいえる。
さて今、米価高騰の問題は農業問題として最重要の問題である。それだけではない。重大な社会問題になっている。
1つの考えがある。
それは、輸入を排してこの問題を解決するには、コストを下げればいい、という俗論である。
コストを下げて、安価なコメを十分に供給することは、農業者の最も重要な社会的責務である。だが、この俗論では、この責務は果たせない。俗論という所以である。
この俗論によれば、経営規模を拡大し、新しい技術を開発し、それを駆使すれば、コストを削減できて、米価を下げることができる。そうすれば、必要なコメは国内生産で十分に供給できる。だから、外国に依存しなくていい、という。
だが、そんなことができるか。規模を拡大できるところは、平地農村地域に限られる。中山間地域ではできない。
その上、小面積の水田があちこちに分散している。これは、地力の違う水田を皆で少しずつ持とう、という共同体の歴史的な知恵である。
このような事実を考えると、大規模経営が出来るところは限定される。だからといって、小規模農家がコメ作りを止めてしまえば、国内生産だけでは需要をまかなえない。
どうするか。小規模農家もコメ作りを続けられる状況を作り出さねばならない。それは政治の責任である。
どんな責任か。それは、小規模農家でも生産費を償えるような米価の設定であり、非農家の人たちと同じ程度の生活を享受できる所得の補償である。
「田んぼは売るな・・・」の訓戒を、今こそ生かさねばならない。
だが、鈴木憲和農相はいう。「米価に政治は関わるべきではない」と。これは無責任だ。責任逃れの上手な、財界に忖度するのが上手な、醜い小心者の言い逃れだ。
農相は「脳内戦艦サナエ」の高級士官ではないか。小規模
農家と大規模農家が、ともに協力して、コメ作りに励めるような法令と制度の整備を、艦長に進言したらどうか。
. (2025.12.08 JAcom から転載)