北東亜細亜共同体論

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大規模稲作一辺倒は亡国への道 (2026.03.15)

大規模稲作一辺倒は亡国への道

●大規模稲作の落とし穴
 コメ問題が世間の耳目を集めている。米価の高騰をどうすればいいか。その中に、稲作を大規模機械化してコストを下げればいい、という主張が有力である。コメの輸出産業化である。しかし、ここには大きな落とし穴がある。政治がこれを政策として採用した場合、日本全体にどんな影響を及ぼすか、この点を充分に検討すべきである。
 ここでの結論は、食糧自給率のさらなる低下によって、亡国への道を走ることになる、というものである。

●世界の稲作には2つの類型があった
 大規模機械化稲作一辺倒の主張には、コメは国内需要量よりも多く作って、余ったものは輸出すればいい、という主張がある。ここには、そんなことが可能か、という大問題がある。
 その前に、以前、世界には経済的および社会的な性格が違う、2つの稲作があったことを見ておこう。

 上の図は、その2つの類型を両端に示したものである。
 左端は、新大陸型といっていい。
 これはアメリカやオーストラリアにあるもので、原住民の土地を奪って行っている大規模な稲作である。ここでは、土地は十分にあるので、土地の生産力を高めなくていい。労働の生産力だけを追求する。そのために大規模機械化稲作になる。いまでは数100ヘクタールで、日本の1ヘクタールの数100倍である
 だからと言って、農業者は数100倍の裕福な生活をしているか。そんなことはない。激しい市場競争の中で低価格になる。その結果、低所得になる。低所得を補うために、補助金漬けだ、と言われて批判されることもある。
 コメ農家が裕福に生活できるかどうかは、大規模機械化稲作を採用したかどうか、で決まるのではない。経済が、社会が、そして政治が決めることである。
 もう1つの稲作類型は、図の中の右端に示した、東アジア型である

●東アジアの稲作は土地生産力の追求型
 東アジア型の稲作は、新大陸型とは逆で、土地生産力を追求する稲作である。労働生産力は、ほとんど無視される。
 80年ほど前のことだが、神谷慶治先生が、日本の稲作の労働の限界生産力はマイナスだ、ということを、データに基づいて計量的に実証したことがある。ゼロならともかく、マイナスだ、といったのである。手を掛けすぎて、その結果、収穫量が減ってしまう、というのである。先生は、土地がコメと労働力を作るのだ、といっていた。土地の人口扶養力とう概念は、これに連なるものだろう
 この研究結果は、アメリカの学会でも注目された。コンピューターのない時代のことである。
 さて、東アジアでは、なぜ土地生産力だけを重視するのか。それは、土地に希少価値があるからである。土地さえあって生産力を高めれば、次三男問題を解決できる。つまり、次三男を分家できる。そうして幸せな家庭を持たせられる。だから、である。

●東アジア先進国型稲作の出現と高コスト化
 以上のように、労働生産力を軽視する東アジアの稲作は、社会全体でみて、低賃金の時代のことである。
 日本では、こうした稲作が終戦直後まで続いた。しかし、その後の経済発展によって、状況が変わった。高賃金社会になったのである。これが稲作に影響した。高賃金の労働者になる方が、稲作を続けるよりも多くの所得が得られる、という状況になった。その結果、コメのコスト(機会費用)が上がった。それでも稲作を続けるには、高米価が必要になった。米価闘争である。ここから、日本の稲作は東アジア稲作から性格を変えた。先進国型になったのである。この変化は、日本だけでなく、韓国と台湾も同じ道を辿った。
 つまり、以下のようになったのである。
 世界の稲作は、これまで新大陸型と東アジア型の2つに分かれていた。しかしその後、東アジア型が2つに分かれて、東アジア先進国型と東アジア途上国型になった。上の図では、右端と中央で示した。
 このようにして、世界の稲作類型は3つになった。
 ここで重大な変化が起きた。これまで、新大陸型の稲作で作ったコメのコストと、東アジア型の稲作で作ったコメのコストには大きな違いがなかった。だが今は、東アジア型でも、新しい先進国型稲作で作ったコメのコストは、格段に高くなった。努力すれば乗り越えられる、という水準を遥かに超えている。

●日本の川は滝だ
 東アジア先進国型稲作によるコメの高コスト化は、計り知れない程の大きな影響を、日本の各方面に及ぼしている。農政に関わる評論家や政治家は、この冷徹な事実を直視していない。そうして、迷路に入り込んでいる。
 迷路は、コメの輸出産業論の夢想である。大規模機械化稲作によってコストを下げて、コメを輸出産業にするというのである。農業者が聞いたら夢のような話である。
 しかし、日本の場合、大規模化によってどれ程コストを下げられるのか。大規模化のための日本の平野は、どれほど広いか。
 明治のころの話だが、オランダから招聘されたヨハネス・デ・レーケ土木技師が、「日本の川は川ではない、滝だ」と言った。日本の川の断面図を水平方向の縮尺を締め、ヨーロッパの川と比べると、滝のように見えたのだろう。つまり、日本の扇状地にある平野の、狭小さを見たのである。
 ここでの視点に戻ると、ここに、大規模稲作の限界がある。

●分散錯圃制は農村共同体の掟
 これに加えて、日本の大規模稲作の前に立ちはだかる難題は、分散錯圃制にある。これは良い農地は、みんなで平等・公平に持とう、という農村共同体の掟に従ったものである。
 このように、稲作の大規模化には、それほどの大面積を期待出来ない。せいぜい数10haだろう。一方、新大陸稲作は数100haである。日本の10倍である。とうてい国際市場で競争できる相手ではない。
 それに加えて、大規模化の適地は、平地にある約65%の水田に限定される。中山間地にある35%の水田は、大規模化の不適地として放棄される。

●対置すべきコメ農政は協同組合主義農政
 こうした状況のもとで、稲作の大規模化をコメ政策の基本に据えたらどうなるか。
 それは、コメ生産の縮小であり、食糧安保の崩壊であり、国家としての独立の放棄である。そして、亡国への道である。
 これに対置すべきコメ農政は、協同主義農政である。
 これは、稲作の大規模化を全面否定するものではない。たしかに、大規模稲作は小規模稲作よりもコストは低い。市場機能を生かして低米価を実現することは、農業者の社会的使命である。低米価を実現すれば、消費者のコメ離れを防ぎ、主食を確保出来る。
 その一方で、食糧安保を確保することも、農業者の重大な社会的使命である。そのためには、農業者の脱農を防ぐために、再生産を補償する高米価を実現しなければならない。
 このように、消費者の主食の確保のためには低米価、食糧安保の確保のためには高米価を実現しなければならない。反対方向に走る二兎を追わねばならないのである。
 これは、国民の生命を守る、という政治に課せられた第一義的に重大な使命である。コメ政策は、ここに確固とした基本を据えねばならない。
 これは政治を志した人にとって、奮闘すべき血沸き肉躍る重大事ではないか。
.      (2026.03.16 JAcom に加除修正して転載予定)

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